いいお母さんは所在ない

「まわりに合わせるだけでは、ほんとうの人生ははじまらない」と岡本太郎は言った。
有馬ゆえ 2022.10.14
誰でも
photo:yue arima

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こんにちは。ライターの有馬ゆえです。

寒くなったら暑くなったり体調を崩しそうですね。年を取ってから自律神経がよりポンコツになり、天気と気圧の心配ばかりしています。そして、20代半ばの頃に編集者の人から「有馬さんは天気ばかり気にしていますね」と言われたのを思い出します。

さて今回は、お母さんという私の大切な役割についての話。あれは、6月頃のことでした。

***

ある晩、ふとんのなかで子どもが言った。

「明日の3時間目がいやなんだよ。学校行きたくない」

「だってさ」と続く理由に耳を傾けながら、ああ明日の朝は大変だろうな、と想像する。玄関先でぐずる子ども、頭フル回転で折衷案を出して可能な限り登校させようとする私。

翌朝は、まさにその光景が繰り広げられた。

不安がりな我が家の子どもは、保育園時代から「行きたくない」と意思表示することがあった。「行きたくない」には、「行きたくないけど仕方なく行く」と「本当に怖い、だから泣くほど行きたくない」の二種類があり、今回は後者の気配を帯びている。

別に学校なんか行かなくてもいいけど、というのが我々夫婦の基本スタンスだが、一方で学校でしか得られないものもあると知っている。嫌なことは避けられるなら避けたっていいが、代わりに好きなことまで諦めるのももったいない。子どもには好きな授業もあるし、学童では楽しく遊んでいるのだ。それならば、と提案する。

「お母さんが先生に話してあげるから、2時間目までで早退したらどう?」

子どもは少ししてから「そうする」とつぶやいた。

瞬間、自分の予定を諦め、今度は学校内で安心できる逃げ場を確保できないか、という方向に考えが傾く。例えば、次からは3時間目は保健室にいて、4時間目以降は教室に戻るとか、と頭をひねりつつ、適当な服を身につける。すでに遅刻なので、一緒に登校しなければならないのだ。

心と身体は確かに連動していると思う。さっきまで子泣きじじいのように重たい石のごとく玄関で転がっていた子どもは、手をつないでマンションの入り口を出るころには、弾むような足取りになっていた。

気まぐれに「学校終わったら美術館に行こうよ」と誘う。すると、「じゃあさ、あのおじさんのところ行きたい。おうちで美術館で、二階からのぞいているとこ!」と言った。

ああ岡本太郎記念館か、と気づく。前も、保育園を早退して行ったんだっけ。

夏空の下、青山陸橋の下から413号線に上がる古くて長い石段を子どもがタタタッと駆け上がり、小さな後ろ姿をまぶしく見上げたなと思い出す。いいねいいね。毎回の展示も楽しみだが、高い天井のアトリエと、お気に入りをぎゅうっと詰め込んだようなリビング、それからうっそうとしたお庭が好きだ。なぜか懐かしい気持ちになる。

「今日はね~お小遣い持っていってほしかった磁石のやつ買うんだ~」

明るい未来を描いた子どもがうきうきしはじめ、現金なと笑いがこみ上げた。まあよかった。教室まで送り届けた後、午後に打ち合わせをすることになっていた編集者にお詫びの電話をし、それから2時間目のあと保健室で親子面談ができないかと養護の先生に相談をし、家までの道を急いだ。仕事のメールの返信ぐらいはしておきたかった。

11時半すぎ。表参道駅から歩いてようやくついた岡本太郎記念館は、空腹の私たちに「本日カフェ休業」という残酷な現実をつきつけた。

お昼を食べてからまた来ようと言っても、物欲に駆り立てられた子どもは「入る」と譲らない。我が子にとって、今日の一番の目的は買い物なのだ。

入場するや、子どもは売店へ直行する。前回私に買ってもらえなかった、両翼(?)がマグネットでがくっつく太陽の塔のマスコットを探すが店頭にはなく、何かを買いたい欲求そのままにガチャガチャを回すことにしたらしい。岡本太郎の作品の中からパーツを取り出してミニチュア化した海洋堂のカプセルトイのシリーズだった。

がちゃん、ごとり。出てきたのは、緑色のアメーバのような足のような形をしたアートピースで、子どもはそれを小さな指で取り出し、「かわいい」と満足そうに両手で握りしめる。そこに、後ろからずっと静かに見守っていた品のいい老婦人が、「ちょっと見せてくれませんか?」と声をかけてきた。

「いいよ」と、手渡す子ども。ご婦人は、しわしわの両手指で緑のそれをつまんでまじまじ見つめてから、「いいわねえ、ありがとう」とほほえみ、持ち主の目を見て返した。誇らしげな子ども。6歳の子どもを1人の人間として扱うようなそぶりがうれしく、あたたかな気持ちになった。

一通り楽しんで、あ~すてきだった、思いついてくれてよかったよ、今日はいい日だね、と記念館を後にしたのは12時半。「どこでごはん食べるの?」「きっと歩いてたら何かあるよ」からの、「もう歩きたくない。お店なんかないじゃん」「そんなの私のせいじゃないし」「もういやだ」「なんだよそれ、コンビニ探すから歩いて」からの、港区青山まで来ておいてコンビニでサンドイッチと納豆巻きを買い、公園のベンチで食事をすることになった。

そして空腹でとげとげしていた我々は、いやまあ、公園でごはん食べるって落ちつくんだよね、おいしいね~、と、満腹により心穏やかに笑い合う親子に戻る。

「遊んでくる」

水筒のお茶を飲んで一息ついた子どもが、ブランコまで走っていった。

ベンチに座って眺める我が子は、たぶんもうあまり遊具には興味がない。鉄棒や登り棒、太い縄を登るようなアスレチック、トランポリンなどがついた大きな複合遊具ならいいが、都会に多い幼児向けの複合遊具は物足りないようだ。あんなに好きだった砂場遊びもしなくなってしまった。公園に行けばいつも一番に駆けていくブランコは、少しすると酔ってしまうらしい。

それでも子どもは、一応はブランコや砂場で遊んでみようとするのだ。ただやっぱりそれほど楽しくはなさそうで、遊ぼうとする身体と乗り切れない心のギャップに、環境の変化と成長に戸惑う子どもの姿が重なった。

ふいに、道沿いの自転車置き場に、制服を着た幼稚園児とそのママの集団が電動自転車で滑り込んでくる。一台、二台、三台、四台。きっと近所の園に通っているのだろう。青山の幼稚園に通う子どもたちと、おそらく専業主婦であろう若くてスタイルのいいこぎれいなセレブママたち。

我が子は、砂場にしゃがんで備え付けの砂場道具を握ったまま、その群れの様子を観察していた。

4人の園児が、だだだだっと砂場に入ってくる。アイスディッシャーのようなスコップが人気で、4人は「かーしーて」「いーいーよ」を数十秒ごとに繰り返していたが、ついに一人ががまんできなくなり、「いや!」と主張しはじめる。いいぞいいぞ、もっとやれ、と心で期待する私。だって、いい子で物を貸し借りする幼児なんか気持ち悪い。

スプーンを奪う子、離さない子、親の方をチラチラ見ながら「けんかはやめて」と言い出す子。「どっちが離せるかな?」と懸命に自分の子どもに譲らせようとする母親たち。

そういうこと、ちょっとやってたな~と、園児に混じって砂をいじる小学生の我が子に目を移した瞬間、急に、所在ない、という言葉が浮かんできた。

あ、と言葉を噛み締める。

所在ないな。私は何者なんだろう。なんでこんなとこにいるんだろう。

我が子と同じ年の頃の子どもたちの多くは今、街の中にはいない。クラスメイトはちょうど給食の後の自学をしている時間だろうか。午後一番の公園というのは、幼児とその保護者の場所なのだ。私も子どももこの場にはふさわしくなさ過ぎて、心細くなる。社会から取り残されたような錯覚。

子どもが突然、立ち上がって砂場を抜け出し、再びブランコに向かう。そして、座板におなかを乗せ、目をつむって前後に大きく揺れはじめた。

曇り空に白く光が回る午後。ふっと気持ちが遠のく。

私はいいお母さんなだけなんだ。それなのに、こんなに所在ない。私は望んでこうしているのに、なぜこんなに心許ないのだろう。この時間はいつまで続くのだろうか。モラトリアムだなと思った。

すぐそこにいるはずなのに、輪になっておしゃべりしているセレブママたちが遠くに見える。まだ2時だというのに、なし崩し的に始まるおやつの時間。「意外と食べますね」とか「フルーツが好きで」とか「食べると眠くなっちゃうみたい」とか「6時に寝るんです」とか「5時半に目を覚ますから困っちゃう」とか、普通のママの会話。遠い過去の話。

腹ばいでブランコに乗り、目をつむってゆれている我が子。

催眠術みたいだ。もう姿勢良く座っていることなんかできずに、ベンチの背に大きくもたれる。揺れる子どもを、ずっと見ている。  

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今回も、読んでくださってありがとうございました。

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