カラスノエンドウと思春期の始まり

photo:yue arima
こんにちは。ライターの有馬ゆえです。
10月に入り、東京はようやく晴れ間が見られるようになりました。昨日なんて、晴れ晴れとした秋空が広がっていて最高でした。久しぶりの気持ちよさに、セロトニン出てる~!って思ってしまった。
それでは今回は、季節外れのカラスノエンドウの話です。

写真下部のピンクの花がついた植物がカラスノエンドウです。photo:yue arima
「これって食べられるの?」
初夏、炎天下に日傘を差して近所の緑道を歩いていると、ふいに10歳の我が子が足下のカラスノエンドウを指さして言った。近所のプールで遊んだ帰り道、「家に帰って昼食を作るの面倒だな~」と考えているときである。
カラスノエンドウは、都会によく群生しているマメ科の植物だ。春先になると細いつるを伸ばしてわしゃわしゃとしげり出し、小さな濃いピンクの花を咲かせ、やがて細長いサヤをつける。サヤの形は、ご存じサヤインゲンと同じ形。ちなみに「カラスノエンドウ」は通称名で、植物学的には「ヤハズエンドウ」が正式名称だそうだ。
私の足下にあるそれらは好き放題に伸びて、そこここにぷりぷりと太った小さなサヤをつけていた。中には、豆が成熟してサヤ全体が黒くなり、今にもはじけそうなものまである。
んー、めんどくさいけど、確かに知りたい。面白い。なんとなく、教育にもよさそう。自然科学への興味。怠惰な自分に、好奇心やら母の打算が勝利した。
「じゃあ調べてみるか~」とスマホで検索すると、どうやらカラスノエンドウは食べることができるらしい。生のままだと種子、言い換えれば豆にレクチンやシアン化合物などの有毒な成分が含まれており、茹でるなどして加熱が必要だという。
といった内容を伝えると、子どもはサッとしゃがんでヘアピンほどのサヤを収穫しはじめた。私もサッと身をかがめ、「できるだけやわらかいの!」と声をかけながら追随する。まさか、カラスノエンドウを食べることになるとは。
「ただいまー!」
帰宅してもう一度調理法を検索して、私は摘み取った15本ほどのサヤをよく塩茹でして食べることに決めた。あらためていくつかのウェブページを確認すると、おいしく食べられるのは春につく新芽や若いサヤのようだったが、その情報は読まなかったことにした。ここまできて、子どもの好奇心をそいでたまるかい。
一応、『日本の山菜』に掲載されているカラスノエンドウの食べ方も紹介しておきますね。ちなみに、育ちきったサヤの食べ方は書かれていません。
若芽や若い葉、茎の先端の柔らかい部分を摘み取り食用とする。よくゆでて水にさらし、和えものやおひたしにする。生のまま天ぷらにしてもよい。初夏には、熟す前の若いさやを摘み取り、天ぷらにする。

photo:yue arima
サヤをいちばん小さなザルに入れ、指先でこすりながら水で洗った。指のはらに触れたそれは、やっぱりもう太りすぎて硬い気がしたが、かまわず塩を入れて沸騰させたお湯にパッと放り込んだ。小鍋の中できれいな黄緑色がぐらぐら踊り、青臭い香りがゆげといっしょに鼻先をかすめる。
なるべくやわらかくなってほしくてよくよく火を通し、小皿に盛って昼食のわきに添えた。「いただきまーす」と声を合わせ、子どもも私もまずはカラスノエンドウにはしを伸ばし、口に入れ、ひと噛み、ふた噛み。
もぐもぐごくり、と飲み込んで、子どもは小声で「あんま好きじゃないかも」と言って、小皿を自分から遠ざけた。残念そうである。
確かに、育ちすぎたオクラのような筋張った食感で、甘みもなくてそれほどおいしくはない。私も残念だ。しかしながら、ここでやめるのは悔しい。そこで今度は、枝豆のようにサヤを割って歯で豆だけを口に入れてみることにする。おっと、意外と悪くない。
子ども、夫と次々脱落していく中、豆だけを食べ続ける私。うん、悪くない、悪くないよ。面白いし。まあ、豆一つひとつが3mmもないのでとても食べにくいけど。

photo:yue arima
食後、もう一度スマホで検索してみると、インターネット上には春先の芽先や若葉を炒め物にするだけでなく、豆を煮てあんこやようかんにしたり、豆を乾燥させて炊き込みご飯にしたりしている人たちまで存在していた。これはすごい、と急に興奮する。生きる力じゃん。
「ねえねえ、この豆、乾燥させたら大豆とかみたいにお豆として食べてる人もいるよ。私、年取ってお金に困ったら、カラスノエンドウのお豆食べようかなあ」
そんなことをうきうきと言い出した母親に、子どもは心底驚いた顔をして言った。
「えっ!? そんなことしなくていいよ! そんなに困ったらお金送ってあげるよ!」
意表を突かれ、言葉が出なくなる。
そうだった。私はつい自分が子どもを守っている、子どもは自分たちに守られて生きていると思ってしまうが、子どもは幼児の頃からずっと親を守りたいと願っているのだった。むしろ、自分の欲望に目がくらむことなく常に無償の愛を注いでいるのは、親ではなく子どもの側で。
「ありがとね。じゃあそのときは甘えさせてもらうね」
今しかいない目の前のかわいい我が子を抱きしめる。
子どもが思春期を迎えつつある今、私たちが大人同士として関係する日は着実に近づいている。そのときに対等でいられるように、私は子どもの手を握る力を少しずつ弱め、また子どもに負担のないスピードで自分の人生を見つめていかねばならないのだろう。難しいけれど、それが親である責任なのだと私は思う。
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