飴ちゃん配って歩きたい

45歳、飴袋でパイン飴を持ち歩く大阪のおばちゃんの気持ちがわかる年頃になりました。
有馬ゆえ 2023.08.11
誰でも
photo:yue arima

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こんにちは。ライターの有馬ゆえです。

先日、子どもに「鼻ぽんってあるじゃん?」と言われてなんじゃそりゃと思って調べたら、鼻血が出たときなどに鼻に詰める綿の製品があるのだそうです。学校や学童にはそれが常備されていて鼻血がでたときに詰めるそうで、子どもは「なんと歯が抜けたとき、歯茎に詰めたんだよね~」と笑っていました。世の中にはまだまだ知らないものやことがたくさんあるんだな~。

これが鼻ぽん。脱脂綿を棒状に加工してあり、繊維が出ないので安心だそうです。便利。公式サイトより。

これが鼻ぽん。脱脂綿を棒状に加工してあり、繊維が出ないので安心だそうです。便利。公式サイトより。

今回は、最近急に湧いて出るようになった「飴あげたい」という衝動について考えました。45歳になって、噂に聞きし飴袋を持ち歩く大阪のおばちゃんたちの気持ちがわかるようになった気がする。

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子どもが通う自治体主催の夏季水泳教室を見学していたら、突然見学室の後ろで「乱暴しないでよ!」という女性の声がした。屋内プールの入り口あたりで、どうやら遅刻して教室が始まっていることにかんしゃくを起こした子どもとその母親がもめているらしい。

時刻は、教室のスタートからすでに30分後。受付開始からは1時間が経っている。ぐずる子どもに、母親が「仕方ないじゃない、みんな1時間も前に着いてるんだから!」と追い打ちをかける。ここまでも、ずいぶんもめたのだろう。2人とも自分を止めることができないでいるのがわかる。

「だってママのせいで…」

「ママのせいじゃないでしょ? あなた『出るよ』って言ったとき、まだ着替えてもなかったじゃない」

「どうしてばあばを送ったんだよ~」

「ばあばを送ることは決まってたんだから仕方ないでしょ!」

張り詰めた空気に息苦しくなってつい振り返ると、母親をねめつける小学三年生ぐらいの体の大きな子。子どもは唇をぐっと噛みしめると、やり着のない怒りをぶつけるようにサンダルを思いっきり振り下げ――それからできるだけ軽く、飛ばした。ああ、よくがまんした、と思った。

どっちも遅れたくなかったんだよね。母親だって、子どもが楽しみにしていたからと、家族の支度もばあばの送迎もやることはいろいろあるのに何度も何度も何度も子どもに声をかけたのだろう。それにもかかわらず、まだ小さな子どもは着替えもしなかったんだろう。そうしてなんとかプールまで連れてきたのに、まだぐずっている子どもにイライラしている。

子どもは子どもで眠かったのか、だらだらしたりテレビを観たりするのをやめられずにいたのか、時間が迫っていることに気付いて初めて、あわてて支度をしたんだろう。今も、自分が悪かったんだと、今だってぐずるべきではないのだと感じながらも、自分をコントロールできないという自責の念にさいなまれている。

ああもう、なんで私は飴を持っていないんだ!

突然、おかしなもどかしさに襲われた。はい、と飴を渡して、二人ともよくがんばったねとねぎらいたかったし、二人のあいだに間を作りたい!という衝動が走ったのだ。気持ちがわかるからだ。こんなとき「あなたのせいでしょ」というせりふを飲み込み、子どもと残念さをともにする難しさも、自分のせいで遅れたことをわかっているときに母親から「あなたのせいで」と批判を浴びせられるつらさも。

何事もなかったかのように意識をプールに集中している保護者集団のなかで立ち上がり、アメリカのドラマに出てくるお父さんみたいに両手を広げて「まあまあ、二人とも落ち着いてさ」なんて入り口の親子に介入する勇気はない。子どもをともなう場面で悪目立ちするのを恐れる臆病者は、ちっぽけな飴に思いを託したくなったのだ。

だれかに飴をあげたいという衝動に駆られたのは、このときばかりではない。

我が子に限らず子どもが全力で、あるいは嫌々でも何かをがんばってやりきったとき、感情をコントロールしようと努めていたとき。自分の子どもの友達に「仲良くしてくれてありがとう」と伝えたいとき。ぎゃんぎゃんわめく乳幼児に付き合ってお母さん、お父さんが疲れ切った顔しているのを見たとき。「これどうぞ」とそっと飴を手渡したくなる。

子どもが小学校に上がってすぐ、学童からの帰り道にある理容室のおばちゃんから「金のミルク」をもらってくるようになった。私の小さな頃はミルク飴といえば「ミルクの国」だったのに!なんて思いつつ、地域に子どもの夕方の下校を見守り、応援してくれる人たちがいることが心強かったものだ。噂に聞きし、飴を配るおばちゃんは、大阪だけでなく東京にもいるのか!と感慨深くもなった。

私は今まさに、彼女たちと同じ「飴を渡すおばちゃん」になりつつあるということなのだろう。

そういえば、先日ポッドキャストで小堺一機が「子どもが糖分を求めるのは、いろいろなことを覚えるからなんだってね」と話すのを聞いていて、子どもに飴をあげるという行為は、その生を賛美する行動なのかもしれない! とひらめいた。いや、甘い一粒の飴ちゃんで大人に心身をチャージしてもらいたいというのだって、その人の生を賛美することになるのではないか?

大げさだろうか。

私はきっと、その人を肯定する気持ちを手渡したいのだと思う。存在をねぎらったり、重たい荷物を少しだけでも一緒に持ちたいというような。美しいようだが、他人の事情に踏み込みにくい社会のなかで、どうにか攻撃を避けながらだれかの力になりたいというずるさも含まれている。

親しい友人や仕事仲間とお茶やごはんをするたび、小さな贈り物を手渡し合っていたときのことを思い出す。あの頃の私たちは、互いの問題を直接解決はできないけれど、もうしばらくのあいだがんばってほしいと祈りながら、ちょっといいお菓子やお茶、ハンドクリーム、文房具などを交換しあっていた気がする。今の私はあの頃より少しだけ広い範囲の人たちの気持ちの震えを感じ取ることができるようになっていて、関係の浅いその人たちを励ますために、気軽で負担のない飴ちゃんをあげたい、と考えるのかもしれない。

我が子の友達の飴を配りたがる子どもたちにも感化されている。飴の入った袋を持ち歩き、「飴いる?」と友達やその保護者に配って好意を示したり、外交をしたりする子。シャイで、友達との別れ際には必ず飴をあげて言葉にならない感情を伝えようとする子。彼、彼女は、その日出会った子にも、知らない子にも、仲間意識がわけば「あげる」と飴を渡すのだ。

最近、子どもは理容室に寄っておばちゃんから飴をもらうことをせず、帰ってくるようになった。理由は、同じマンションの友達とおしゃべりする方が楽しいから。わざわざ挨拶しておしゃべりを途切れさせたくないのだ。

「飴よりお友達なんだよね~」

子どもが事もなげに言う。

理容院のおばちゃんたちは、子どもが仲良しの子とおしゃべりして歩く当たり前の下校風景が当たり前になるまでの日々を支えてくれた人たちなんだ。感謝の気持ちがわき上がる。小学校に入って初めて一人歩きを始めた子どもが不安なとき、おばさんたちに「おかえり」と渡された飴をなめて「あ~甘くておいしいな~」と気分が紛れたことは、一度や二度ではないだろう。

飴より友達。おばちゃんたちはそれでいいんじゃないかな、と同じ飴を配るおばちゃんになりつつある私は思った。

そして、私が配るならどんな飴がいいだろう、ミルク飴とフルーツ味の飴、ああやっぱり大阪のおばちゃん御用達のパインあめ? 小さな子には棒付きがいいから、不二家のポップキャンディかな!と、考えを巡らせた。

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