相続放棄物語(1)

あなたのお父さまが借金を遺して亡くなりました。つきましては。
有馬ゆえ 2024.03.22
誰でも
photo:yue arima

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 こんにちは。ライターの有馬ゆえです。

 昨年末に、お友だちに影響されてDuolingoを始めた私。英語をまともに勉強していたのは中学までで、英語で交流する外国人の友達もおらず、英語圏への留学経験もゼロ……というわけで、超初級からスタートして80日。いまだに「It's too hot today. I want ice cream.」とかやってるレベルにもかかわらず、3月の初めにカナダから来た母の知人と会ったとき、早くも効果を感じてしまった。ブロークンなはちゃめちゃ英語でも話したい気持ちになるし、耳も慣れてるし、中学時代に詰め込んだ英語の知識を引き出すスピードが上がっている気がするんですよ。う、うれしい。ありがとうDuolingo。

雅叙園でおひなさまを見てきたよ。この座敷雛の舞台は平安京。約800体(!)のひな人形で京都・下鴨神社、上賀茂神社の例祭「葵祭」の行列やその見物人、宮中の宴などを表現しているそうです。photo:yue arima

雅叙園でおひなさまを見てきたよ。この座敷雛の舞台は平安京。約800体(!)のひな人形で京都・下鴨神社、上賀茂神社の例祭「葵祭」の行列やその見物人、宮中の宴などを表現しているそうです。photo:yue arima

 さて今回は、この冬に突然降って湧いた相続について。そして、生まれて初めての相続放棄について。

***

 11月のはじめ、教育支援センターから子どもと帰ってくると、ポストに一通の封書が入っていた。差し出し人は「債権回収株式会社」。もしかして、と予感がして、帰宅するなり仕事部屋に直行して封を切った。入っていた書類には、こんな文句が書かれていた。

「被相続人○○○○殿の法定相続人である貴殿に相続の有無を確認させていただきたくご照会申し上げます。相続を放棄されていない場合には本件債務について各自の法定相続分に応じてご返済いただくことになります」

 被相続人○○○○殿、とは私の実の父親の名前である。つまり、彼が借金を遺して亡くなったので、相続するならば支払ってください、ということなのだ。金額は、なんと約1500万円。

 私にもついに来たか、と思った。

 離婚して離ればなれになった方の親が死に、その債務が子どもに降りかかってくる、という話は、私と同じく親が子どもの頃に離婚した友人から聞いたことがあった。渋谷のロイヤルホストで、相続放棄の手続きのために父親が最後に住んでいた地域の家庭裁判所に書類を出しに行き、ついでに自宅にも寄ってみた、と話す友人のハイテンションが頭に浮かぶ。

 父と母は、私が2歳の時に離婚した。以来会う機会がなかった父について私がすぐに思い出せるのは、その名前だけだった。年齢も、住所も、仕事も、顔もわからない。高校生のころ、父の住所が書かれた紙を母にもらったが、それもとうに捨ててしまっていた。戸籍謄本の父親の欄は、目の焦点を当ててしっかり読んだことがない。母と父がどうやって知り合ったか、父がどんな人だったかも、ほとんど聞いた覚えがなかった。

 試しにGoogleの検索窓に父親の名前を打ち込んでみると、同姓同名の何人かの情報に交じって、ある男性のFacebook投稿が引っかかった。クリックしてみると、父の名前と、一緒に趣味のギターを楽しんだ日のことが書かれている。二人は同じ大学のギターサークルに所属していた仲間らしい。年頃からして、これはおそらく父だな、と思った。

 タグ付けされたアカウントに飛んでみる。アイコンには、知らないおじいさんの顔写真。クリックして拡大し、へー、こんな顔をしてたんだなと他人事のようにながめる。カバー写真には、私と同世代の女性二人と焼肉店で撮ったスナップ。水商売の同伴という雰囲気でもなく、ってことは娘さんだろうか、と考えて、途端に気が滅入った。

 戸籍上の親子関係を終わらせたとしても、血縁関係にある私は父親の財産の相続権を持っている。もし仮に、父に妻とその妻とのあいだに子どもが二人がいたとしたら、民法で定められた遺産の相続割合は妻が二分の一、私を含めた子どもはそれぞれ六分の一ずつ。父親に負債を差し引いてもなお相続する財産がある場合、現在の家族にとって私は、突然現れて財産を奪っていく邪魔者でしかないのだ。

 うんざりした気持ちで、再びFacebookをスクロールする。そんな私の気も知らず、生前の父が趣味の活動で友人たちとやりとりする様子をぼんやり見つめる。まったくのんきなもんだ。まあ、元気で楽しそうに生きてくれていて何より。しかし、あなたはいったい誰なんだ?

 味わったことのない不安で胸がざわつく。同時に、それをはるかに凌駕する好奇心が湧き上がっていた。43年間も他人だった父親の相続放棄をするなんて、一生に何度も、いや多くの人にとっては一度だって起こることではない。だから、これから起こる出来事をつぶさに味わっておこう。もちろん、それを書き付けてやろう。そうしないでどうする。

 半ば、やけくそになっていた。ふと、ロイヤルホストで妙に興奮して話す友人の姿が目に浮かぶ。ああ、あの人もこんな気持ちだったのだろうか。

 翌日、私は今回の債権回収の担当者である「クリハラさん」に電話をしてみることにした。お金の取り立てを仕事にしている人と話してみたかったのだ。父親の相続という出来事が現実なのだと、誰かの口から聞きたかったのかもしれない。

「いクリハラです」

 書類にある固定電話の番号をコールすると、クリハラさんはものすごい早口で電話に出た。「はい」の「は」はコール音にかぶって聞こえなかったらしい。私が書類について伝え始めるとせっかちに相づちを打ち、「最初の奥様とのお子さんですよね」とかぶせ気味にまくし立ててくる。声の太さや響きから、50代後半の堅太りの男性を想像した。「前の奥様」ではなく「最初の奥様」ということは、父は何回か再婚しているのだろうか。

 私が親が離婚してから40年以上会っていないこと、亡くなった事実すら送られてきた書類で知ったことを話すと、クリハラさんは熱のない口調で続けた。曰く、私の父親が自分で経営していた法人の借金の保証人をしていたが、その保証債務の返済途中で亡くなったため、相続人に問い合わせをして借金の相続の意思を確認しているのだそうだ。

「アドバイスするとしたら、相続の意志はないでしょうから、相続放棄を至急していただくことですね。お住まいの場所の管轄の家庭裁判所を調べて問い合わせてください。相続放棄は死後3カ月以内が基本ルールですけど、お送りした書類を持っていって、これが送られてきたときに知りましたって言えば大丈夫ですから。理解しました?」

 確認があまりに高圧的で、ぐっと喉が詰まる。

「あーはい。どうもありがとうございました」

 うろたえたのをごまかそうと、わざと間延びした声を出してしまう。クリハラさんはやっぱり早口で続けた。

「期日までに書類を送ってください。よっぽどのことがなければあればですけど、あまりにご連絡が遅い場合はこの番号に電話しますんで」

 きちんと書類を返送するつもりでいるのに、ヒヤッと背筋が寒くなる。興味本位で電話をしたくせに、私はお礼を言ってそそくさと通話を終わらせた。

 経営していた法人の借金の保証人か。書類に書かれていた法人名に目をやり、その名前をパソコンで検索しててみる。それは、銀座の雑居ビルの一室を事務所にしている小さな会社だった。事業内容が書かれているサイトは見つからない。父は、どんな仕事をしていたのだろう。

 次に、「相続放棄」と検索してみる。ダダダッと並んだ検索結果には、裁判所や法テラスのウェブページ、銀行や法律事務所、葬儀社のオウンドメディア、新聞社の相続関係のウェブ媒体に混じって、ヤフー知恵袋があった。

 同じ境遇の人たちの声を聞きたくなって、吸い寄せられるようにクリックする。質問者たちは一様に、突然のことに戸惑い、ためらっていた。親や見知らぬ親族への複雑な感情に苦しんでいる人もいる。日本の戸籍制度に振り回されている人たちが、他にもたくさんいるのだ。同士よ、という気持ちになって勇気づけられた。

 検索結果に戻り、今度は裁判所の「相続の放棄の申述」というページを開いた。専門用語が多くて頭が混乱してくるが、読むスピードを下げて我慢強く読み進める。

 相続には借金を含むすべての資産を相続する「単純相続」、すべての資産を相続しない「相続放棄」、一部の資産を相続する「限定承認」があり、相続放棄、限定承認の二つは家庭裁判所への申述が必要なのだそうだ。資産があれば限定承認にしたいところだ、と予期せぬ本音が頭をよぎった。父親に養育の義務を果たしてもらっていないという思いが、それなりにあるからだ。でも、そのためによく知らない人と争うのも面倒だ。そもそも資産なんてあるかわからないし。

 では相続放棄をするにはどうしたらいいのか。被相続人(父)の子にあたる私が相続放棄をする場合は、相続放棄の申述書、父の住民票除票または戸籍附票、私の戸籍謄本、父の死亡の記載のある戸籍(除籍、改製原戸籍)謄本をそろえ、管轄の家庭裁判所に申し出をする必要があるという。費用は、800円分の収入印紙と郵送代として切手をいくらか。直接窓口に行くのか、郵送やオンラインも可能なのかなど、具体的な申述方法までは、そのページには書かれていなかった。

 ひとまず書類を集めてみよう。でも、私の戸籍謄本はいいとして、父の住民票除票または戸籍附票、父の死亡の記載のある戸籍(除籍、改製原戸籍)謄本は、どうすれば手に入るのだろう。途方に暮れそうになったが、Yahoo!知恵袋の質問者たちを思い出し、自分を奮い立たる。

 明日、区役所に行ってみよう。私が保育園に通っている頃、一緒に過ごした子たちの多くは片親だった。小学校でも1学年に10人は片親家庭の子がいた。私のように相続で相談に来る人がいないわけではないだろう。

 そう、私は至急相続放棄をしなくてはならないのです。相続の意志はないでしょうから。

(次回に続きます)

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