自分を名で呼ぶ

積極的に自分のことを本名の下の名前で自称しています。
有馬ゆえ 2022.02.25
誰でも
photo:yue arima
photo:yue arima

こんにちは。

少しだけあたたかくなってきて、次に恐れるは花粉症。ここ数年、「エリザス」という粉末を拭きかけるタイプの点鼻薬を処方されているのですが、これがすごくよくて医学の進歩に毎年感激しています。点鼻薬特有の液だれがなく、それだけでQOLが上がる感じ。花粉症の印象までよくなっている。子ども用がないようなので、ぜひ開発してほしいなぁ。

さて、今回のタイトルは「自分を名で呼ぶ」。お恥ずかしながら、私はいまだに自分のことを下の名前で自称することがありまして。

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公立小学校を卒業し、私立の中学校に入学したとき、自分のことを自分の名前で呼ぶ女の子が多いことに衝撃を受けた。「りょうこは」「さとみは」といった具合に、自分自身の呼称が「私」ではなく、自分の下の名前なのである。

気付いた頃には自分を「私」と呼んでいたため、彼女たちのふるまいは異世界の文化のように映った。子どもじみている、とは思わなかった。彼女たちは、自分が自分であることに自信をもっているように見えた。未熟な自分を偽らずに世界に差し出しているようで、うらやましかった。

この人たちは、自分がどうか評価されるかを気にする必要のない環境に生きている。自分が世界の中心であることがまだ許されている。そんな感じがした。自分を他人に委ねることなく、大事に守りながら生きている姿が、まぶしかった。

私も自分を名前で呼びたい、彼女たちの仲間に入りたい、という気持ちが爆発したのは、中学3年のときだっただろうか。私は突然、自分を下の名前で呼び始めた。もう覚えていないが、最初はすごく勇気が必要だったと思う。あれだけうらやましかったのに、いざ自分がやるとなると子どもっぽくて恥ずかしいという自意識が働いていた。

しかし周囲は、不思議な顔をしながらもそれを受け入れてくれた。うれしかった。そして私は、幼い頃から呼ばれてきたあだなに別れを告げた。親しい間柄の人たちから、自分が名乗る名前で呼ばれる人生が始まったのだ。

親しみをこめてその人の名を呼ぶ、というのはあたたかな行為だ。その人自身を認め、いつくしむ行為なのだと思う。

眠れない夜を過ごした20代、ふとんにもぐったまま、よく大切な人が自分を呼ぶ声を思い出した。暗闇のなか、頭の中で自分の名を呼ぶ優しい響きは水紋のように広がって、私を包んだ。その声に、何度も助けられた。

ママ、という立場になると、ママ友、というものができる。彼女たちも、私を下の名で呼んでくれる人たちだ。

ママ友間では、親しくなって「○○ちゃんママ」「○○くんママ」を脱すると、その人を苗字ではなく名前にまつわる呼び名で呼ぶ、という不文律があるように思う。家族の名前で呼んでもいいはずなのに、わざわざ個人としてのその人の名を呼ぶ、というのは面白いし、うれしくもある。きっと、母親という立場で出会ったからこそ、家族に依存しない呼び名で結びつきたいという欲求が、私の中にはあるのだろう。

一方で感じるのは、一定の年齢を過ぎると、ほとんどの男性は苗字でしか自分を名乗らなくなるし、相当に親しくない限り相手を名前で呼ぶこともないようだぞ、ということだ。

かくいう私も、夫が自分を下の名前で呼んでいたらどうしたのかと心配になるだろうし、パパという立場で出会った人たちとママたちのようなスピード感で名前で呼び合うようになったら気味の悪さを覚えないという自信はない。もちろん、自分が子どもを通して知り合ったばかりの他人の夫と、名前で呼び合うのにも抵抗がある。

欧米のドラマなんかで子どもを通した間柄であっても「ジェームズ」「キャサリン」「アンドレ」「クロエ」なんて呼び合っているのを観ると、それが日本ではタブーなのだとわかる。所詮文化。だけれど、言い換えれば私の中にすり込まれた根深いバイアスなのだろう。

大学生の頃、明治末期から大正時代の少女雑誌、婦人雑誌をながめていると、誌面で文通し合う女性の署名は必ず下の名前で、それがとても軽やかに思えた。一方で、夏目漱石の『三四郎』で、田舎から出てきたばかりの主人公が語り手から「三四郎」と下の名でと呼ばれるのは一人前ではないからだと教わった気がする。

それならば、名字で呼ばれることのない女はいつ一人前になれるか、と詰め寄りたくもなるが、子育てをしながら現代を生きる同世代を見渡すと、特に結婚している男性はえてして苗字を背負わされるし、私たち女性は軽々と家族を離れて個人で自由につながれるのかもしれない、と思ったりもする。

あるときから、私は仲良くなりたい相手をできるだけ早く下の名で呼ぶようにしたいと考えるようになった。

そんなふうに思うようになったのは、何人かのママさんたちが、他者を名前で呼びはじめることは相手への好意を示すことであり、意外とうれしいものだと教えてくれたからだ。ママ同士のつながりを疎ましがる人もいると思うが、出会ったきっかけはともあれ、と、ぐいっと新しい関係性を拓こうとしてくれる人たちの軽快さには救われることの方が多い。だから、ママ同士であれ、仕事で出会った人であれ、親しい関係性を築きたいと思ったら、えいやとがんばってみることにしている。

突然、人を「○○さん」と下の名前で呼んだり、「○○さんと呼んでいいですか」とたずねたりするのは、かなり気恥ずかしい。引かれたら嫌だなという恐怖もある。だから脳内では「この人は先日までは関係のなかった人であり、この人がいなくなっても私の人生にダメージなし。どう思われても大事なし」と唱えつつ、名前でつながり合いたいよ、という意思表示をしてみることになる。

私は、いまだに家族や、古い友人たちの前ではしばしば自分を下の名前で呼ぶ。周りで聞いている他人に痛いと思われたり、未熟だと非難されたりするのは怖いが、「お母さん」と自称することも多い日常のなかで、自分が自分らしくいていいのだなあと気が緩む瞬間を捨てられない。

子どもにもいつか「お母さんやめなよ」とか言われるんだろう。そのとき彼女はもう、自分を「うち」とか呼ぶのかな。だけど私は、おばあさんになっても積極的に自分を名前で呼ぶことが許される環境にいたい。そんな気持ちで、自分を自分の下の名前で呼ぶ幼児らしい我が子をながめている。

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