2022年、私の足ツアー

phto:yue arima
こんにちは。
昨日まで保育園に通っていた子どもが、今日から学童に通い始めました。「もうついてこなくていい」と言われるまでは学童、および小学校までお送りつかまつる予定ですが、手をつないで歩く毎日の終わりが見えてきて切ない日々であります。
さて今回は、「2022年、私の足ツアー」。自分の足をながめていたら、いくつかの出来事が刻まれていることに気がつきました。
畳に寝転がり、天井に向けた両足をなんとなく見ていると、右足のくるぶしがやたらと乾燥していた。骨をおおう部分の前側が、乾燥して小さなうすくちしょうゆせんべいのようになっている。
嫌だ嫌だと起き上がり、皮膚科でもらった保湿剤をすり込んでから左のくるぶしを確認してみれば、「なにもかわりはありませんよ」とすまし顔。なぜ、右側だけが? と、あぐらをかいて、右くるぶしが床に押しつけられていることに気がついた。
そうかそうか、右くるぶしくん、君はそうやって私の体重を支えてくれていたわけか。毎日負担をかけていたんだね。それじゃあ保湿剤ぐらい塗ってあげないと申し訳ないね。
再び寝転がり、足を今度はまじまじとながめた。思えば、私の足にはいろいろな記憶が刻まれている。
左足の裏、土踏まずの真ん中から外側の丘に登るあたりに、十字の形の傷がある。大きさは、縦2センチ、横1.5センチほど。私がまだ保育園に通っていたある土曜日、友達の家でつけた傷だ。
覚えているのは、一面のキラキラとした光。晴れた海の水平線のあたりで、波が白や銀に光を反射するような。ああ、きれいだなぁ。私はうっとりと足元のきらめきを見下ろし、吸い込まれるように大きくジャンプした。
4歳だか5歳の私は、テーブルから落ちて割れたグラスの破片が一面に散らばる床に、ソファの上から飛び降りたのだった。
子どもを持ち、幼児とは魅力的なものにひきつけられて体が動いてしまうものなのだと知った。たぶん私もそうだったのだろう。そして、きっと自分から飛び込んだくせに、尖ったガラスが足の裏に刺さったショックではちゃめちゃに泣いたに違いない。友達のお母さんが運んでいってくれた病院で、お医者さんがその破片を取り除こうとするときの暴れようまで想像できる。
百貨店勤務だった母の定休日は水曜のみで、保育園が午前までの土曜日は、よくその家で遊ばせてもらっていたらしい。当時の保育園は母子家庭の子どもが多かったから、シングルマザー同士の助け合いだったのかもしれない。
その傷が治ってからも、幼児はしばらくかかと歩きをしていたそうだ。
「かわいかったけど、かわいそうだったわ」と母は言った。
お次は、左足の甲、真ん中ちょっと左あたりについている、長さ3センチほどのゾウリムシみたいな傷跡。大学1年生のとき、生家のお風呂場でついたものだ。
その夜、私は遅くまで翌日提出のレポートを書いていた。その授業を担当していたのは英文学者の富山太佳夫で、彼は私に探求の面白さを初めて教えてくれた人だった。授業やレポートのメモ書きで触れる言葉の一つひとつが想像力を刺激し、体の中に埋まった種が芽吹いてぐんぐん伸びていくような感覚があった。
レポートの内容を反芻しながら、深夜の冷たい浴室でシャワーを浴び、部屋に戻ろうとしたときだった。重たいガラスのサッシ扉が動かない。どうして? 頭が真っ白になる。私は、二重鍵のひとつを完全にはずさないまま浴室に入ってしまい、内側から鍵がかかってしまったのだ。
携帯電話は水に濡らせば壊れる時代だ。家族を呼ぶために大きな声で叫んだり、拳で扉を叩いたりしたが、誰も起きてこない。私は焦った。お風呂から出て、レポートの仕上げをしたかった。
そして、泣きながら力任せにサッシ扉を思い切り引いた、のだと思う。ゴトン!と、鈍い音を立てて扉が落ち、左足に激しい衝撃が加わった。
それからのことはほとんど覚えていない。
大きな物音にだれかが起きてきて、泣きわめく私に、たぶん服も着せてくれたのだろう。覚えているのは、当時の母親の恋人に背負われて深夜救急へ連れて行ってもらい、それはそれは屈辱的だったこと。レポートの提出が遅れ、富山に「本当にそんなことがあったのか?」と疑われて悲しかったこと。好きでもない相手に頼らざるを得ず、信用してほしい人に信用してもらうこともできない。自分のそんな状況がつらく、うらむようにかさぶたを何回もはがした。
43歳のうららかな午後、ひさしぶりにじっくり見つめたら、傷跡はずいぶん目立たなくなっていた。体は確かに代謝しているのだろう。この傷も、おばあさんになったころにはしわにまぎれてしまうのかもしれない。
最後は、両足からブーメランのように内側にせり出す外反母趾だ。その稜線を目でなぞると、同じ水晶型の形をしていた祖母と母の足が浮んでくる。私にとって、生まれ育った家の血を強く感じる部分だ。
骨格による歩き方のせいか、猫背のせいか、中学時代にはすでに、私の足の両親指は体の外側に20度ほど曲がっていた。
世の中の靴の多くは、まっすぐ指の足の人のために作られている。だから長いあいだ、なんとか入る靴を痛い思いをして履く、というのが私にとっての普通だった。多くの同級生たちが愛用していたリーガルのローファーは入らず、ハルタのローファーをどうにか履いていた。私服の学校だったからどんな靴を選んでもよかったのだが、思春期なので周囲のイケてる女子に混じりたかったのだ。
L.A.ファッションを雑誌でインストールした同級生たちの醸し出すムードで90年代ファッションの流行を感じ取ってからは、海外製のスニーカーがほしくなった。ナイキは幅が狭すぎて諦めざるを得なかったが、リーボックやコンバースはなんとかいけた。ダンスもバスケもしなければ西海岸がどこにあるのかも知らないくせに、リーボックのハイカットにルーズソックスの組み合わせは、私にめちゃくちゃな万能感を与えた。
15歳だか16歳だかの頃からは、ヒールのついた靴で登校するようになった。当時、私よりももっとひどい外反母趾に悩んでいた母が履きやすいと太鼓判を押したのは、マーガレット・ハウエル。タイツと靴の色を黒で合わせると足が長く見え、大人になった気分だった。足をねじ曲げることが外反母趾をひどくするなんて、知らずに。
「オシャレは我慢」なんていう合い言葉も相まって、それからも私は靴に足を合わせようとしてきた。しかし震災を経験し、出産で筋肉を失い、毎日子どもを追いかけますようになり、まさにマーガレット・ハウエルの靴を履いてジョージ・ジェンセンの店頭に立っていた母と同じ43歳の私は、冠婚葬祭でもない限りヒールや革靴を履かなくなっている。もう無理をして痛みに耐えるのが嫌になったのだ。
中学時代から30年あまりが経ち、90年代がリバイバルになった今、私は外反母趾があっても軽やかに歩ける靴と出合えるようになった。フライニットにしろ、エアリフトにしろ、ナイキの靴を愛用しているという事実は、もはや14歳の自分が浄化される感すらある。
私の足は今もひどめの外反母趾だ。でも、私はもうその事実にたまにしか落ち込まないし、靴に無理矢理足を押し込むこともしない。ダメなら次、そうやって足に合う靴を探すだけだ。そして今日も、親指の角度よ浅くなーれ、浅くなーれと唱えながら湯船でマッサージを施している。
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