ばばちゃんの無賃労働

「まりちゃんの弟や妹はできないんじゃないかな。私が断る、大変になるのは私だから」
有馬ゆえ 2023.05.12
誰でも
photo:yue arima

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こんにちは。ライターの有馬ゆえです。

気持ちのいい初夏ですね~! 薄い上着をはおって強い太陽の下を歩ける季節って最高。みずみずしい緑が光をきらきら反射して、涼しい風がすいっと吹いて。ひさしぶりのノーマスクの5月、道々の薔薇の花を一つひとつかいで回るのが楽しいです。

さて今回は、「ばばちゃんの無賃労働」と題して、先日公園で孫を遊ばせていたおばあちゃんと話して考えたことを。立派に育て上げた娘を、うまく肯定できない心の内とは。

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ゴールデンウィークの初め、朝一で子どもと近所の公園へ行った。いつもは狭いながらもよく賑わっているが、その日の先客はたった一組。歩き始めたぐらいの女の子がせっせと砂場でスコップを動かし、それを高齢の女性が見守っていた。

我が子は二人を気にしていないふうを装ってブランコや鉄棒でちょろちょろ遊んでから、さっと砂場に走っていった。小さい子のお世話と、その保護者に話し相手になってもらうのが好きなのだ。7歳児が赤ちゃんの砂場セットを借りるのも忍びないので、私は子どもを置いて家まで砂場セットを取りに帰ることにした。

公園に戻ると案の定、子どもは女性と親しげに話していた。「遊んでくれてたんですよ。ありがとうね」と女性が私の顔を見る。乳幼児と過ごす人たちは常日頃から息が詰まっており、世話好きキッズが子どもの相手をしてくれるのがありがたいのだった。私も同じように、何人ものお兄さん、お姉さんに感謝したものだ。世話好きキッズは、それを心の栄養にする。

1年以上使われていなかったバケツやスコップを我が子に手渡しながら、砂場のへりに座っておしゃべりの輪に参加する。一心に砂を掘っている女の子は1歳半でまりあちゃん(通称「まりちゃん」)といい、女性はまりちゃんの「ばばちゃん」なのだそうだ。

ばばちゃんはアシンメトリなショートヘアをオレンジっぽい茶色に染め、アディダスのオシャレなスポーツウェアでかっこよくキメていた。パジャマに毛が生えた程度の部屋着に無理矢理トレンチコートを羽織って出てきた己が恥ずかしくなる。

「近所のおうちなんだって。保育園もそこだって」

と、スタバのプリンカップに濡れた砂を詰めながら子どもが言う。続けてばばちゃんが、「K小なんですね。まりちゃんのママちゃんもK小だったの。じじちゃんもK小でね」ときびきびと説明した。ばばちゃんの夫であるじじちゃんはこのあたりに昔から住んでいる家系で、ばばちゃんは40年ほど前にお嫁に来て、一人娘を産んで、その娘の子どもがまりちゃん、ということらしい。

まりちゃんが、言葉にならない言葉で、ばばちゃんに何かを訴えかけた。

「もうほんと大変。何言ってるか、さっぱりわかんないから」

ばばちゃんはまりちゃんの相手をしてから、ぼそっとひとりごちる。言葉に疲労がにじんでいる。ばばちゃんは、乳児特有の仕草をかわいく思えなくなるほどに、よくまりちゃんの面倒を見ているのだ。言葉を獲得していない子どもの気持ちをひたすらに推察し、返事もないのに一人きりでしゃべり続ける日々の苦しさが、ファッと体によみがえる。

「ママちゃんがいない日は私が見なきゃいけないから。保育園のある日はいいんですよ。だけど、今日みたいに日曜日でも朝4時に出て深夜に帰ってきたりするし、出張で3日ぐらいいない日もあるし。パパも出張が多いんですよ」

次から次へと言葉がこぼれてくる。ばばちゃんのなかには、他人に聞いてほしい話がたまっているのだ、と思った。普段、彼女の話を聞いたり、彼女を助けたりする人はいないのかもしれない。「平日、保育園に行っている間は休めますか?」と聞くと、ばばちゃんがかぶせ気味に「私も仕事あるから!」と返答する。ばばちゃんは、積極的に望んでいるわけではなく、他に人がいないからまりちゃんのお世話係をせざるを得ない、ということなのだろう。

「ママ!」

遠く聞こえた旋回音に顔を上げ、まりちゃんが青空を指さした。

「ああ、あれはママちゃんじゃなくてヘリコプターだよ、ママちゃんの乗ってる飛行機はこの時間は飛ばないんだよ。この子のママちゃんは国際線のCAなんですよ。結婚した頃はパパのいる福岡にマンション買って通い婚してたけど、この子が生まれた途端、パパが東京に異動願いだして、うちに帰ってきて。『どこかマンションに住めばいいじゃない』って言うんですけど、『こんな都心に家があるのにどうしてお金出してマンションに住まなきゃいけないの?』って、娘が」

やれやれと言う顔をしたばばちゃんに、今度は我が子が顔を上げて聞いた。

「まりちゃんはお誕生日プレゼントに何もらうの?」

「何もらうんだろうね。……洋服とかは山ほどあるけどね」

出張先で子どもと一緒にいられない罪悪感を消すためにお土産を買いたくなる気持ちを思い出して、「普段、離れてる時間が長いから、いろいろ買いたくなるんですかね~」と尋ねる。

「あっちこっち行ってるから。ニューヨーク行ってミュージカル見てきたとかいうんですよ。日本はミュージカルとか高いけど、あっちは安いからね」

その間、私はまりちゃんの面倒を見ているんだけどね、とでも言いたげに肩をすくめてみせる。

「娘はF幼稚園なんですけど、じじちゃんもF幼稚園でね、だからこの子もF幼稚園かなあとか言うんです。でも私、せっかくいい保育園には入れたんだから、幼稚園に入れなくたっていいじゃない、って言うの」

F幼稚園は、駅向こうにあるハイソな私立幼稚園だ。畑や果樹が並ぶ広い園庭とロッジのような園舎があり自然に触れ合いながら学ぶのだそうで、充実した行事や延長保育時のバイオリンやピアノ、バレエといった課外授業、何より熱心なPTA活動で知られている。バザーなんかも大々的で、保護者の方々が徹夜で作った市販レベルの商品がずらりと並ぶと聞いたことがあります、と話すと、ばばちゃんは大きくうなずいた。

「そう、園児と同じぐらい保護者が通わなきゃいけないの。娘のときにすごく大変な思いしたから、もうやりたくない。まりちゃんが入園したら、どうせ、それやるの私だから」

「まりちゃんは小さいから、弟とか妹も生まれるかもしれないよね」

ばばちゃんが一瞬黙ったのは、そう子どもがと何気なく口にしたときだった。一人っ子の我が子はきょうだいにあこがれており、ただその可能性がうらやましかったのだ。しかし、ばばちゃんは真剣な顔つきで子どもに伝えた。

「できないんじゃないかな。私が断る、大変になるのは私だから」

「ママちゃんに自分でお世話しなさいって言ったら?」

「ダメダメ! そんなの絶対無理よ! そんなこと言ったら何言われるかわかんない」

もういやになっちゃう、とでも言うように、半分笑いながらばばちゃん。

「この子のママちゃんはストロングガールだから、絶対に口じゃ勝てないの。娘はね、立教大学行ったんです。だけど、女の子に高学歴なんて必要ないね。頭のいい子は、もう強すぎる」

ガーンときた。ばばちゃんは、自分は娘が身につけた強さの被害者だと思っているのだ。小さな抵抗として「家族関係においてはそうなんですかね」なんて返答してみる。でも無力だ。

ばばちゃんにとって、立教大学を卒業して国際線のCAになった30代後半のママちゃんは、掛け値なしに自慢の娘だろう。きっと語学もよくできて(CA志望になる前は国際貿易の勉強をしていたそうだ)、コミュニケーション能力にも長けていて、高収入で、いわゆる勝ち組という称号を勝ち取った、一握りの人材だ。

だけど、ばばちゃんはそんな一人娘に苦労させられている、と思っている。

今、共働き家庭は、保護者が行き詰まってしまわないように、できる限り家庭の外から助けを借りながら子育てすべきだ、といわれる。多くの場合、サポーターの第一候補として挙がるのは夫婦どちらかの実家で、だいたい祖母がメインのお世話係に任命される。祖父は自分の子の育児、悪くすれば家事育児全般に関わったことがないため、特に乳幼児を前にするとどう役に立っていいかわからずに空気と化す人が多いらしい。そういう半透明のじいじたちを、私はこの7年間で何人も見てきた。

現代の母親たちにとって、共働きは珍しいものではない。世の中も、家事や育児を分担するのが当然という風潮だ。一方、その母親である祖母たちは、望むと望まざるとにかかわらず、家庭に押し込められ、家事育児を背負わされてきた人たちだ。女という性別に生まれたというだけで、家庭の外で働く権利も持たせてもらえず、家事育児を父親と共有したり外注したりすることが許されなかった女性たち。

ばばちゃんを見ていて、私たちは、そんな祖母たちに再び母の役割をなすりつけているのかもしれないと思った。「母親なんだから、子どもである私をお世話するのは当たり前でしょ」と、自分が自分のやりたいことを取捨選択したあとの残りかすみたいな家事育児を母親になすりつける。そんな都合のいい自分を自分の中にも発見して、ヒエッと声が出そうになる。

「母親でしょ」

その無自覚な押しつけは、私が夫から、周囲から、社会から、されたくないこと、なのだ。子どもがかわいくないの? お世話したくないの? 助けたくないの? とかいう問題じゃない。その気持ちを、利用されたくない。なのに、平気で。

近年、「孫休暇」なるものが広がりつつあるらしい。福井県の東邦銀行(2015年~)、広島県の精米機器メーカー・サタケ(2016年~)、江崎グリコ(2019年~)など民間企業で広がるほか、2023年1月からは宮城県でも、孫のいる人が取得できる休暇があるという。

父親の育休も含めて、子どもを産んだ人以外が子育てに参加しやすい環境を作ることは、確かに必要だろう。ただこの制度は、「孫がかわいい」という気持ちを利用して、家事・育児の問題を家庭内で解決させようとする力も持っているように映る。

「孫休暇があるんだからいいじゃない」と、この制度によって善意をかすめ取られるだれかは、本当にいないのだろうか。仕事や家庭の事情で親と同居していない人、親が近所に住んでいない人、親との関係がうまくいっていない人、家庭内に介護や看護の必要がある人――彼ら、彼女らは、この制度の恩恵を受けられるのだろうか。では、我が家のように、組織に所属しない人たちは?

家庭の問題を家庭の外に開き、社会で支援する。そんなふうにならないものだろうか。所属する組織次第で、住んでいる土地次第で変わるものでなく、子育ての支援とはどこにいるだれでも受けられる福祉の範疇なのではないだろうか。だって、その先にいるのは、これから未来を切り拓いていく命なのだ。

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