コスモスの成仏

育った家からアラビアのコスモスを一人暮らしのアパートに持ち出したのは、半分以上、意地だった。
有馬ゆえ 2022.08.05
誰でも
photo:yue arima

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こんにちは。ライターの有馬ゆえです。

毎日毎日暑い夏、夜間のエアコンはどうされていますか? 私はなかなかうまく付き合えないでいます。

設定温度は30℃(おやすみモード)でエアコンをかけ、さらにサーキュレーターで空気を回して――そんな工夫で部屋がいい感じになるなんていうのは絵に描いた餅で、涼しすぎて体が冷える。しかしちょっとでもエアコンを切ると、暑さで寝苦しいのです。これは、長袖パジャマを着たり、毛布を掛けたりしながら、いいあんばいを探るしかないのか。こんな夏でも安眠をむさぼれるいいアイデアがもしあったら、ぜひ教えてください。

さて今回は、「コスモスの成仏」をお送りします。育った家から持ってきたフィンランドの陶器メーカー、アラビアのコスモスという皿について思っていること。

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43歳になる日に、夫と娘が近所の果物屋でズコットを買ってきてくれた。

ズコットとは、イタリアのフィレンツェに伝わる伝統菓子で、ドーム型のスポンジのなかにたっぷりと生クリームの入ったケーキだ。果物屋のズコットなので、果物がこれでもかというほど入っていて、子どもが私には三種のベリー、夫にはバナナ、自分にはイチゴをセレクトしてくれた。ありがたいとよろこんで、それぞれのズコットをアラビアのコスモスにのせ、紅茶をいれはじめる。

いつものように3人でテーブルを囲み、一口ずつ交換なんぞしながら、わいわいとひととき楽しむ。そして宴の後、クリームやスポンジのかけらで汚れた3枚の皿を見て思った。

ああ、このコスモスも、ようやく成仏するのかもしれない。

アラビアは、フィンランドの陶器メーカーだ。北欧がブームになって以来、その道が好きな人たちにはマリメッコやイッタラのような定番ブランドとして愛されている。「コスモス」とはアラビアのなかでも人気を集めるデザインのひとつで、1966年から1977年までつくられていたのだという。深みのある琥珀色とぽってりした厚み。ひゅっひゅっと筆をすべらせて描いた放射線状の花びら。

我が家にある3枚のコスモスは、母が日本橋高島屋で買ったものだ。1970年代、日本には北欧ブームが巻き起こり、食器や家具が輸入されていたらしい。育った家には、代官山のヒルサイドテラスで買いそろえたというIKEAの家具もあった。

母の買いそろえた食器は、たいていコスモスのように三組あった。たぶん、それを買った当時、私たちが3人家族だったからだ。しかし両親は私が2歳のときに離婚し、三組の食器が最初の目的通り、ともに食卓に並ぶことはほとんどなかったのではないかと思う。

母子家庭になった私たちは、母方の祖父母の家に移り住むことになった。祖父母と私たちは別々のキッチンを持ってはいたが、母が働き、夕食を用意するのが祖母だったため、そこからコスモスたちはますます使われなくなった。私たちの食器は、狭いキッチンの食器棚にしまい込まれていた。

一人きりの放課後、私はよくガラス越しに並んだ食器をながめた。食器棚の中は、いつでも静けさで満ちていた。琥珀色したコスモスのプレートにコーヒーカップ、白と藍が美しいアラビアのアネモネのスープ皿、何脚かあったメルシャンのワイングラス、ふちに青と金の幾何学的な装飾があるジバンシーのティーカップ……。それらはまるで博物館の陳列物のようだった。

「このハンドバッグは母から譲り受けたもので」とか「だしを取ったお味噌汁は祖母の味です」とか、愛情とともに何かが受け継がれるエピソードを聞くと、強いコンプレックスを覚える。私には、そうしたものがまったくないからだ。

ちまちまとお菓子の袋を小さくたたむ癖には母のようだなと感じるが、それは「愛情をつなぐ」といった意味合いを持たない。母との思い出を示す絵本や児童書も、ぬいぐるみもおもちゃも、過去を憎みすぎて捨ててしまった。

あーあ、と言いたくなる。私だって家族との幸せな記憶をたぐり寄せるようなものや習慣とともに生きてみたかった。

19歳の時、母の再婚で、私と母は祖父母の家を出ることになった。母は現在の夫と住む家に、私は一人暮らしのアパートに。

どちらが先に引っ越したのかは忘れたが、母が新しい家で暮らし始めてからも、食器棚には見慣れた皿やカップが行儀良く並んでいた。私はそれを見て、自分と母との楽しかった思い出まで捨て置かれてしまったような気がしていた。

だから、コスモスたちを自分が新しく住むアパートに持ち出したのだ。

こんなんでいいわけないだろう、と思っていた。悔しかった。置いていって、いや置いていかれてたまるか。半分以上、意地だった。忘れてやるもんか、母にとってなかったことにしたい過去でも、私にとっては大切な日々だったのだ。

大して自炊を楽しむでもなく、人を家に呼ぶでもない一人暮らしの私にとって、三組セットのコスモスたちは、はっきりと無用の長物だった。自分の選んだ家族と三人暮らしをしている今も、中途半端な大きさからやはり出番がない。

だけど、私はコスモスを目に入る場所に置いておきたいし、ケーキを食べるときにはなぜか取り出したくなる。生まれ育った家族と使った覚えなどほぼない、けれど愛着のあるその食器を。

だって、不憫じゃないか。せっかく縁あって一緒に生活してきたのだもの、私ぐらいは君を家族の食卓に招待するよ、そうじゃないと成仏できないだろう、という気分なのだ。子どもに受け継ごうなどという気持ちはさらさらないが、私はこのコスモスをたぶん死ぬまで手放すことはないだろう。

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今回も、読んでくださってありがとうございました。

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